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クリシュナ意識運動の原点、バクティヴィノーダ・タクーラ


今回は私たちが従う師弟継承上グルである、バクティヴィノーダ・タクーラについて紹介したいと思います。




シュリーラ・バクティヴィノーダ・タクーラは1838年、西ベンガル、ナディア地区に暮らす裕福な家族に生まれました。当時は主チャイタニヤが残していった本来の教えがどんどん汚れていって本当の献身奉仕を行っている人々がいませんでした。クリシュナはBGで「宗教が正しく実践されなくなった時、反宗教的な風潮が世にはびこった時、私は現れる」とおっしゃっているように、宗教が正しく実践されなくなった1800年代に自分の献身者であるバクティヴィノーダ・タクーラを送りました。


バクティヴィノーダ・タクーラは幼い頃からその特別な力を発揮し、2歳の時に初めての詩を執筆し、6歳の時にはマハーバラタやラーマーヤナについて人々に語り、9歳になった時にはすでに占星学を全て学び、特に深い喜びを得なかったことに気がつきます。


バクティヴィノーダ・タクーラはジャナヴァ・マタの系統上のシュリー・ヴィピンヴィハリ・ゴースヴァーミーからヴァイシュナヴァ・ディクシャを授かり、その後、シュリーラ・ジャガンナータ・ダーサ・ババジから精神的なインスピレーションと指示を受けていました。高い地位と広大な知識を持ちながらも、バクティヴィノーダ・タクーラは決して傲慢にならず、いつも謙虚で全てに対して親切でした。実際、他の人を傷つけるような言葉は決して発しませんでした。


高等裁判所の判事として、政府においてとても責任のある座に就いていながら、クリシュナ意識の家族を維持し、クリシュナ意識に関する本を100冊ほど、そして詩やお祈りもたくさん執筆されました。彼は一日中仕事した後、たった4時間ほどの睡眠後、夜中に起床し、朝まで執筆していました。

毎瞬間をクリシュナへの愛情奉仕を使うことを心がけていたBVTはとても厳格なスケジュールを守っていました。

8 p.m.-10 p.m. 休憩

10 p.m.-4 a.m. 執筆

4 a.m.-4:30 a.m. 休憩

4:30 a.m.-7 a.m. ジャパ

7 a.m.-7:30 a.m. 文通

7:30 a.m.-9:30 a.m. 経典の勉強

9:30 a.m.-10 a.m. 沐浴、プラサーダム(牛乳500ml、果物、チャパティ2枚)

10 a.m.-1 p.m. 法廷での職務

1 p.m.-2 p.m. 家でリフレッシュ

2 p.m.-5 p.m. 法廷での職務

5 p.m.-7 p.m. サンスクリットの経典をベンガル語に翻訳

7 p.m.-8 p.m. 沐浴、プラサーダム(牛乳500ml、果物、チャパティ2枚)

バクティヴィノーダ・タクーラの大きな功績

1 権威ある精神的な本を100冊以上執筆

チャイタニヤ・マハープラブの教えを再復活させ、説明する本(それもベンガル語、オリヤ語と英語で)以外に、精神的な感情と哲学的な結論に溢れる詩や歌を何百も作詞しました。

シュリー・クリシュナ・サンヒター、シュリー・チャイタニヤ・シクシャムリタ、ジャイヴァ・ダルマ、シュリー・ハリナマ・チンターマニ、ギタヴァリ、サラナガティや、バガヴァッド・ギーターとチャイタニヤ・チャリタムリタの解説が書物に含まれます。


2 主チャイタニヤの降誕なさった場所を発掘

主チャイタニヤの本来の降誕地はこの500年の間、ガンジス川の下に消えてしまいました。1888年、バクティヴィノーダ・タクーラはマヤプールのヨーガピットで主チャイタニヤの降誕地を発掘しました。その時、有名な聖者であったシュリー・ジャガンナータ・ダサ・ババジがその発見を確証しました。その吉兆な出来事はガウディヤ・ヴァイシュナヴァたちをとても喜ばせました。このようにして、バクティヴィノーダ・タクーラはヨーガピットで主ガウランガとシュリマティー・ヴィシュヌプリヤの崇拝を確立しました。

3 布教の革新的方法を導入

1896年、バクティヴィノーダ・タクーラはシュリー・ガウランガ・リーラ・スマラナというシュローカ本に「シュリー・チャイタニヤ・マハプラブ、その人生と教え」という英語の序章を添え、世界中の大学に送りました。この行動は西洋諸国に主チャイタニヤの教えを広めたいという強い願いからくるものでした。

バクティヴィノーダ・タクーラの三つの予言

バクティヴィノーダ・タクーラはある人物と現象について、3つの予言をしていました。

1 近々ある人物が現れ、世界中を旅し、主チャイタニヤの教えを広める


2 そのうちハリナマ・サンキールタナが世界中で広がる。(いつになればアメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、ロシアの人々がカラタラとムリダンガをもって、町中でハレー・クリシュナを唱えるでしょう)


3 (いつになれば白い肌の外人たちがマヤプール・ダーマを訪れ、ベンガルのヴァイシュナヴァたちとジャヤ・サチナンダナ、ジャヤ・サチナンダナと唱えるでしょう?


シュリーラ・プラブパーダはバクティヴィノーダが海外に本を送った1896年に、自分が生まれたのは精神的に重要だとおしゃっていました。主チャイタニヤのご意志、バクティヴィノーダ・タクーラの望み、そしてシュリーラ・サラスヴァティ・タクーラの慈悲がシュリーラ・プラブパーダに主チャイタニヤの教えとハレー・クリシュナを世界中に広める力を与えました。そしてプラブパーダはバクティヴィノーダ・タクーラの予言を三つ全て、成就させたのです。プラブパーダは世界中に主チャイタニヤの教えとハリナマを広め、1986年、バクティヴィノーダ・タクーラが三つ目の予言をした100年後、アメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、ロシアなど、50以上の国から3000年の献身者たちがマヤプールのイスコンMayapura Chandrodoya Mandir に集まり、1000年のベンガリ・ヴァイシュナヴァたちとジャヤ・サチナンダナ、ジャヤ・サチナンダナ、ガウラ・ハリーと唱えたのです。

プライドをもたず、謙虚さとラーダとクリシュナへの愛に溢れるプラブパーダはすべての功績を先代のアーチャーリヤたちに捧げました。そしてプラブパーダは「シュリーラ・バクティヴィノーダ・タクーラこそ、最も純粋なクリシュナ意識運動のオリジン、原点である」とおっしゃいました。

驚異的な布教活動と、数多くの書籍や詩の執筆は彼がシュリー・チャイタニヤ・マハープラブの永遠な交際者であることを明かしています。




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