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プラブパーダ、アメリカに到着


シュリーラ・プラブパーダのアメリカへの旅路

シュリーラ・プラブパーダは自身の精神指導者、シュリーラ・バクティシッダーンタ・サラスヴァティー・タークラから、英語圏の人々にクリシュナ意識を広めるよう指示を受けておられました。1965年、『シュリーマド・バーガヴァタム』3巻を出版した後、プラブパーダはアメリカに渡航することを決意なさりました。


1965年8月13日、当時A.C.バクティヴェーダンタ・スヴァーミーとして知られていたプラブパーダは小さいスーツケース、傘、そして一袋の乾燥シリアルだけをもち、コルカタ港に停留していた貨物船「ジャラドゥタ」号へと繋がる急なタラップを登っていかれました。その旅は相当な苦難をもたらし、旅の13日目、プラブパーダはアラビア海を渡航中に深刻な心臓発作を起こしました。そこで死を覚悟しましたが、その寝苦しい夜、プラブパーダは夢を見たのです。主クリシュナは自身のあらゆる化身と共に無甲板船に乗り、船をお漕ぎになり、その船はシュリーラ・プラブパーダの船を縄で引っ張っていました。クリシュナはシュリーラ・プラブパーダに微笑みかけ、アメリカへと船を引っ張っていらしたのです!シュリーラ・プラブパーダはこの出来事について日記には書きませんでしたが、それまでの困難に満ちた日々に線を引き、生と死の間の大きな危機を乗り越えたことを宣言なさりました。数年後、シュリーラ・プラブパーダはこれらの出来事を弟子たちに語ったのです。


この危機の後、シュリーラ・プラブパーダは力を取り戻し、船がエジプトのサイド港に入ったのち日記を再開されました。その後ジャラドゥータは地中海を渡り、ジブラルタル海峡を通り、大西洋に入って行きました。海はいつになく穏やかな湖のようで、大西洋の航海は珍しく楽でした。合計35日後、9月17日の午前5時半、船はようやくボストンのコモンウェルス・ピアーに停泊しました。翌日、ジャラドゥータはニューヨークにたどり着き、シュリーラ・プラブパーダは西洋での任務を果たすため人気のないブルックリン桟橋に降り立ったのです。


プラブパーダが残された日記からの抜粋

9月16日 木曜

今日で旅の35日目。昨晩の10時半頃、バミューダの緯度からボストン港方面に北東に向かった。朝の大気はほぼ澄み渡り、船は穏やかに進んでいた。大西洋でこのような経験は初めてで、幸運は私の存在のおかげだと、一等航海士が言ってた。そう、これは主クリシュナの恩恵であり、私がひどく船酔いしていたために、クリシュナ自身が舵を取ってくださっていると、答えた。化身の姿で主が船を漕いでいると。アメリカの港には無事に辿り着くだろう。一日のほとんどは快晴だったが、午後4時頃、突然霧がかかった。霧に覆われ、辺りは暗くなった。地平線はまだ見える。その先に何があるのか、見てみよう。深い霧のため、午後6時には船は完全に止まった。主クリシュナよ、この霧から抜け出せますように。 主クリシュナの恩恵により、2〜3時間後には霧が消え、船は再度動き始めた。夜も穏やかで、36日目の今日、午前5時半にボストン港にたどり着いた。


9月17日 金曜

ボストンの造船所で午前10時に税関職員などが船に入ってきた。確認作業などが済み、入国許可を発行してもらった。船長とボストンの町を見てみたが、とても良い。それについては後ほど書くことにする。コルカタ港から出発して36日目の午前、アメリカのボストン港にたどり着く予定 ACB - /9/65

翌日の午後4時までボストンで1日を過ごした。


9月18日 土曜

旅の37日目。午後4時、ニョーヨークを目指してボストン港を出航。午前中、バトラーにいるゴーパール・P・アガルワルに電話で話した。彼の知り合いがニューヨークで私を迎え、バスか電車(都合のいい方)でバトラーまで連れて行ってくれるとのこと。ドクター・ミスラに連絡を試みたが、昨日も今日も不在。迎えにきてくれるのか分からない。今日は素敵なアメリカ人紳士、ガーディナー氏とフライアー氏に出会った。綺麗な運河を通り過ぎ、二つの架道橋の下を通った。しかし深夜には霧による障害がかなり強く、船の進みは遅かった。1965年9月19日の12時半、ニューヨーク港に遅れて到着するまで、霧は続いた。


9月19日 日曜

旅の38日目。予定時刻より3時間ほど遅れて、午後12時半ニューヨーク港に到着。


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